桜田門外の変当日の襲撃犯の動きを追ってみたいと思います。

愛宕神社に集合
安政7年3月3日(1830年3月24日)の早朝に品川の旅籠を出発。
愛宕山の茶店に集結、身支度を整えています。巻き絵では浪士が石段を上がってきてますね。
愛宕山集合之図 月岡芳年画
明治4年ごろの愛宕神社出世の石段
明治4年ごろの愛宕神社山頂
愛宕山頂からの江戸の景色(幕末にはこの景色を見ながら勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城にむけて会談したといわれている)
愛宕神社には石碑が建てられ、ここに桜烈士が集合したことを伝えています。
愛宕神社から桜田門までは2.5キロぐらいの距離。
天候は明け方から季節外れの雪。天候は襲撃犯にかなり有利でした。
襲撃犯は水戸浪士1名と薩摩浪士1人。
その背景は。。。
「将軍の跡継ぎ問題」と「黒船ハリスが来て井伊直弼が「日米修好通商条約」を朝廷の許可なく結んでしまったこと」。
攘夷派(外国は武力で排除派)の水戸藩、尾張藩、福井藩は江戸城でこれに対して猛抗議。
しかし、この抗議が定められた登庁日以外に勝手に城に来たという罪にされたことで水戸藩主は「引退・謹慎」となり、これが「安政の大獄」の始まりとなった。
これにより井伊家が推していた徳川家茂が14代将軍に決まる。
そして孝明天皇より「戊午の密勅」が水戸藩に届きます。
これには「なぜ朝廷の許可なく日米修好通商条約を結んだのか説明しろということと、朝廷に従うように幕府を改革するように」とのこと。
朝廷からの手紙が水戸藩を経由して幕府に届いたことに井伊直弼は激怒。密勅に関係したものすべてを投獄や謹慎などとし、100名以上が処罰された。
これをきっかけとし、一部の尊王攘夷派の水戸藩氏が脱藩して井伊直弼暗殺を計画。それが大久保利通をリーダーとする「精忠組」と手を組み、暗殺が成功したらその首を掲げて3000人の兵を率いて京都で合流し上洛し幕府に改革を迫る予定でした。
それを薩摩藩の島津久光が「精忠組」をなだめ、その計画は頓挫する。藩外に出ていた薩摩藩士を薩摩に呼び戻しましたが。。。。頓挫したことを水戸藩には伝えず。
呼び戻しに応じなかった有村兄弟(兄は襲撃には参加せず)が水戸浪士に加わりました。
浪士たちの計画では襲撃で負傷したものは自害、逃げ延びたものは京都へ向かって薩摩藩の兵に合流することとなっていました。
愛宕神社で大願成就の祈願をして桜田門へ向かい、大名見物の民衆に紛れて行列の到着を待ちます。
一人が番所の建物の陰に隠れて銃で井伊直弼の乗ったカゴを狙っていました。銃は水戸藩の武器工場「神勢館」でペリーがもたらしたリボルバー拳銃「コルト51アーミー」を完全にコピーして作ったと言われています。
十数分の襲撃で井伊直弼の首を取り、それを合図にそれぞれが逃走します。
(安政七年(1860年)大名小路神田橋内内櫻田之圖)
見届け役として戦闘に参加せず立ち去る者、老中脇坂中務大輔邸(古地図F)、細川越中守邸(G)に自訴(自首)する者など。
その中で、井伊直弼の首級を挙げた元薩摩藩士、有村次左衛門の逃走経路を見てみます。
後頭部を切られ有村次左衛門は重症を負いながらも、井伊直弼の首級を持ち、桜田門外(A)から今の日比谷公園方向に進み、日比谷御門(B)を抜け、濠沿い(今の日比谷通り)に、馬場先門(C)、和田倉門(D)が閉門しているのを横目で見、辰ノ口の遠藤但馬守邸の辻番所前(E)で力尽きます。
和田倉門。背後のビルとビルの間に辻番所があったようです。
遠藤但馬守邸の辻番所前に着いた有村は腹を切るために雪の上に座りました。
切腹しようとしましたが皮の稽古胴を外せなくて苦戦します。もう満身創痍で大量の出血もあり、動くのも辛かったと思います。
仕方がないので刀を地面に刺し、刀の上に倒れこんで首を刺そうとしますが右を切り、左を切りで真ん中を刺すことができず。
周りにいた人に介錯を頼みますがその姿が恐ろしく、誰も近寄りませんでした。仕方がないので周りの雪を口の中に押し込みます。
その当時は切腹して早く死にたいときは水を飲めと言われていたようです。
その時になって遠藤家から人が出てきて有村を屋敷へ運び入れ、運ばれている最中に息を引き取りました。享年22歳でした。
この襲撃に参加した18名のうち16名が襲撃中や逃亡中に捕まるなどして亡くなりました。(2名は天寿を全う)
この事件をきっかけに倒幕の動きは加速していき、事件から7年後に大政奉還となりました。
まとめ
教科書に出てくる名前だけは知っている事件が次々とこの時代に集中して起こっていたんですね。
改めて安政の大獄や黒船についてまで調べちゃいました。
黒船=ペリーだと思っていたので日本に牛乳を広めたハリスという人物のことは知りませんでした。。。
井伊直弼のお墓の謎も気になりますし、井戸も見てみたいのでまた寄り道したいと思います。
コメント
[…] 桜田門外の変をわかりやすく。襲撃犯が愛宕神社集合からの足取り桜田門外の変当日の襲撃犯の動きを追ってみたいと思います。 愛宕神社に集合 安政7年3月3日(1830年3月24日 […]