桜田門外の変をわかりやすく現場検証。当日の井伊家の動き

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面会の寄り道

皇居の白鳥を数えていたら、桜田門がありました。

マラソンの人たちがたくさん通る大きな門は江戸城の名残で国の重要文化財になっています。私は桜田門とは警視庁のことだと思っていたので。。。こんなに立派な門があるとは知りませんでした。

でも、門のことより。。。

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有名なのは桜田門外の変。。。場所

教科書の中でしか知りませんし、歴史にも全く興味がないのですが実際の場所に来ると少し振り返ってみたくなるものですね。

ってことで、当日の様子を振り返ってみたいと思います。

井伊直弼の一行が襲撃されたのはこの辺りだと思われます。

桜田門まであと少しで。。。

警視庁前の交差点の辺りです。

事件当日は旧暦の3月3日(1860年3月24日)桃の節句の祝賀のため周囲の大名は江戸城に参内することになっていました。

当日は明け方から季節外れの雪で辺りは真っ白でした。事件時刻には雨交じりの雪になっていたようです。

午前8時に江戸城より登庁の鐘がなり、ぞろぞろと大名が江戸城に入っていきます。

そのころ、その大名行列を見物に行くのが民衆の楽しみで桜田門の辺りには多くの見物人が集まっていました。

午前9時ごろ井伊直弼の屋敷から行列が出てきます。

彦根藩主の井伊直弼の屋敷は。。。

ちょっとわかりにくいですが遠くに棒(時計台)が立っているあたりです。

当時の地図では。。。

あの場所は国会議事堂の隣にある憲政記念館です。国会議事堂の前庭から憲政記念館一帯が井伊家の屋敷だったようです。

距離にして400-500mくらいです。井伊家の前は加藤清正のお屋敷でした。

事件当日の様子は。。。

井伊家の行列は護衛や駕籠かきなどを含めて60人ほどの行列でした。

雪が降っていたため合羽をかぶっていましたし、刀は雪除けのために黒い布がかけられていたようです。

当時、江戸城参内のルールとして空脛というのがあり、長い袴などは裾を膝の上あたりまで捲り上げて門をくぐるというものでした。

井伊直弼もカゴの中で空脛だったのではないかという説もあります。

護衛もみんな雪の中足を膝まで出して歩きました。

事件の様子

行列が桜田門の手前に差し掛かった時に一人の水戸浪士が訴状を持って行列の前に立ちはだかり、動きを止めます。

何事かと思っているうちに先頭の護衛官が切られて倒れていきます。

すると、後ろから銃声が聞こえ。。。それを合図にして見物人に紛れていた水戸浪士17名と薩摩浪士1名が刀を抜いてカゴに切りかかります。

護衛たちは刀に布がかかているので抜けないし。。。合羽で動きにくいし、足は冷たくて動かないしでどんどん護衛が倒されていきます。

その恐ろしさに屋敷などへ逃げ帰った人たちもいました。

              「桜田門外之変図」参考

              古地図と事件現場

 

そうこうしているうちにカゴの中で足を撃たれて動けなかった井伊直弼をカゴの外へ引きずり出し、薩摩藩の有村次左衛門が首を切り落とし、それを掲げて勝鬨をあげ、浪士たちが引き揚げます。

その時間、わずか十数分での出来事でした。

引き揚げようとする有村から首を取り返そうと、勝鬨の声で目覚めた護衛が有村の後ろから切りつけ、後頭部に10センチ以上の深手を負わせました。

護衛艦はすぐに浪士によって切られ、直弼の首を引きずりながら有村は逃げます。

 

襲撃の知らせを聞いた井伊家は大慌て。

すぐに人を出し、たくさんの護衛などの遺体、首のない井伊直弼の遺体、いくつもの雪に落ちた指とか腕とかを血で染まった赤い雪も一緒に回収しました。

そして首の行方を捜し、和田倉門の遠藤但馬守邸にあることを知ります。

そこへ井伊直弼の首を返してもらいに行くのですが、遠藤家は「幕府の検分が終わっていないのに渡せない」と言って5回に渡り断りました。

きっと首を取りに来た人も井伊直弼の首ということは伝えていません。

そこで、井伊家(藩主が死んでしまったと知られたら家が潰されるので隠したい)と幕府(幕府の権威が落ちたと思われたくないので隠したい。水戸藩と彦根藩の争いを止めたい)と遠藤家で話し合い、表向きは闘死した護衛の加田九郎太の首としてもらい受けた。

 

持ち帰った首は体と縫い合わされ、病気で寝込んでいるという風に装いました。

江戸城には桜田門外で負傷したため参内できないと届を出し、幕府もこれを認めました。

江戸城からはたくさんの薬草などが届けられたそうです。

 

その後、井伊家は跡継ぎを決めて取り潰しを免れ、井伊直弼の命日は3月28日と墓石に刻まれている。でも井伊直弼の死を2か月公表しなかった。

当時の公式文書には急病で闘病ののち病死と記されている。

 

しかし多くの民衆に見られていたので隠しきることはできず、ますます幕府の権威は落ちていきました。

事件から2年たってから当時の護衛やお付きの使用人などに藩主を守れなかった責任としてほぼ全員死罪となりました。

逃げ帰ったものに関してはその家族や親族にまで処罰が及んだそうです。

まとめ

実際の場所と照らし合わせてみると面白いしわかりやすいですね。

教科書だけではこんなに大変な事件だとはわかりませんでした。

次は襲撃犯側の動きを振り返りたいと思います。

コメント

  1. […] 桜田門外の変をわかりやすく現場検証。当日の井伊家の動き皇居の白鳥を数えていたら、桜田門がありました。 マラソンの人たちがたくさん通る大きな門は江戸城の名残で国の重要文化 […]

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